おかえり様のいる村
登場キャラクター
閂
霧の集落で迷い人を迎える存在。おかえり様に仕える二十四代目の迎え人であり、灯花を村へ案内する。穏やかで礼儀正しいが、どこか人ならざる気配をまとう。灯花に告げる忠告はひとつだけ。「“おかえり”と言われても、“ただいま”とは返してはいけない」
おかえり様
霧の集落に祀られる神様。帰る場所を失った者を見つけ、優しく迎え入れる。決まった姿を持たず、見る者が最も「帰りたい」と願うものの姿で現れる。灯花には、白髪で顔を布に覆った麗人の姿に見えている。
志乃ばあ
霧の集落に暮らす87歳の老婆。白髪をきちんとまとめ、年老いてなお背筋は伸び、足取りはゆっくりでも迷いがない。灯花に食事と寝床を用意する、優しさと善意の人。
ミチ
霧の集落に暮らす8歳の少女。ふたつみつあみに、くまさんのヘアピンをつけている。明るく人懐っこく、灯花を「灯花お姉ちゃん」と呼んで慕う。おかえり様を心から信じており、「おかえり様がいるから大丈夫」と迷いなく言う。
直
霧の集落に留まっている27歳の元迷い人。銀縁の丸メガネに、襟元を開けたスタンドカラーシャツを着ている。外の記憶は曖昧で、どこかぼんやりとしているが、本人はそれを不幸だとは思っていない。
ストーリーのはじまり
灯花は、誰にも行き先を告げずに山へ入った。リュックの中に入っているのは、財布とスマホと、飲みかけのペットボトル。 着替えも、地図も、懐中電灯もない。 帰る準備なんて、最初からしていなかった。 山道は、思っていたよりも静かだった。 木々のあいだから差し込む光は白く濁り、足元の土は湿っている。 どこかで鳥が鳴いた気がしたけれど、その声もすぐに霧に吸い込まれていった。 灯花は何度かスマホを見た。 圏外。 画面の右上に表示されたその二文字を見ても、不思議と焦りは湧かなかった。 むしろ、少しだけほっとした。 誰とも繋がらなくていい。 誰からも呼ばれなくていい。 誰にも、見つけられなくていい。 そう思ったはずなのに。 霧が濃くなるにつれて、灯花の足取りは少しずつ乱れていった。 さっきもこの曲がった木を見た気がする。 この石段は、登ったはずだった。 下っていたつもりなのに、また同じ場所へ戻っている。 来た道が分からない。 帰るつもりなんてなかった。 それなのに、本当に帰れないかもしれないと思った瞬間、胸の奥が冷たく縮んだ。 灯花は立ち止まる。 息が白く滲む。 「……どこ、ここ」 声に出しても、返事はない。
やがて霧の奥に、古い屋根の影が見えた。 近づくと、それは朽ちかけたバス停だった。 木製のベンチは雨を吸って黒ずみ、屋根の端には苔が生えている。 時刻表はない。 路線図もない。 行き先を書いた看板も、どこにも見当たらない。 ただ、そこだけが霧の中でぽつんと息をしているようだった。 灯花がベンチの前で立ち尽くしていると、霧の奥から低いエンジン音が聞こえてきた。 バスだ。 いつの間に現れたのか、古びた車体が灯花の前で静かに止まる。 ヘッドライトが霧に滲み、扉がゆっくりと開いた。 行き先表示には、たった一言だけ浮かんでいる。 「帰り」 灯花は、その文字を見つめた。
帰り。 何へ。 どこへ。 誰のもとへ。 帰るつもりなんて、なかったはずなのに。
その時、霧の向こうに白い影が立った。 白い髪。 顔を覆う薄い布。 人のようで、人ではないほど静かな姿。 灯花は声を出せなかった。 白い影は、まるで最初から灯花がそこに来ることを知っていたように、ゆっくりと首を傾ける。
おや。この姿のワタシが、見えているんだね
その声は優しかった。 優しすぎて、逃げ出したくなるほどだった。 灯花が後ずさろうとした瞬間、ちりん、と鈴の音が鳴った。
霧の中から、もうひとり現れる。 黒い装束。 苔色の短い髪。 赤い紐に結ばれた小さな鈴。 その人物は、灯花の足元を一度だけ見てから、静かに顔を上げた。
見てしまったのですね
灯花はようやく息を吸った。 「あなたは……」 黒い装束の者は、深くはない礼をする。
ワタシは閂。おかえり様に仕える、迎え人です
迎え人。 その言葉の意味を、灯花はすぐには理解できなかった。 灯花は振り返る。 バスの扉は、まだ開いていた。 帰れるのかもしれない。 そう思った瞬間、胸の奥がひどく揺れた。 帰るつもりはなかった。 外に戻ったところで、何も変わらない。 誰も自分を待っていないかもしれない。 それでも、この霧の奥へ進むのは怖い。 灯花が迷っている間に、バスの扉が閉まりはじめた。
「あ……」 声を漏らした時には、もう遅かった。 バスはゆっくりと動き出す。 行き先表示の「帰り」という文字が、霧に滲んで遠ざかっていく。 灯花は追いかけることもできず、ただ見ていた。 帰るつもりはなかった。 けれど、帰れるかもしれないものが目の前から消えていくと、胸の奥が冷たくなる。 やがてバスは、霧の中へ音もなく沈んでいった。 灯花は、しばらくその場から動けなかった。 「今の、乗れば……」 閂は答えない。 ただ、鈴が小さく鳴る。
一度迎えられた方に、帰り道はすぐには開きません
「迎えられた……?」 灯花は振り返る。 閂は、灯花をまっすぐ見ていた。
まだ『ただいま』とは返していない。 けれど、おかえり様を見て、ワタシの声を聞き、ここに留まることを選ばれた
「選んだつもりなんて……」 灯花の声は、霧に溶けた。 ただ、迷っていただけだった。 どこへ行けばいいのか分からなくて、足が動かなかっただけだった。 閂は静かに続ける。
保留もまた、ひとつの応えです
霧の奥で、白い影が微笑んだような気がした。 閂は改めて、集落へ続く道を示す。 そこには、さっきまでなかったはずの細い道が続いていた。
こちらへ。霧が深くなる前に、集落へご案内します
灯花は一歩踏み出しかけて、足を止める。 帰るつもりはなかった。 けれど、知らない場所へ連れて行かれるのは怖い。 その迷いを見透かしたように、閂は静かに言った。
ひとつだけ、覚えておいてください
鈴が、かすかに鳴る。
誰かに『おかえり』と言われても、『ただいま』とは返さないでください